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八木良太

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INTERVIEW WITH YAGI LYOTA 2010.12.16

活動について - 実際にものに寄って近くで見て、何が見えてくるかを自分で確認したい

&ART(以下、&) : 制作活動のステートメントを教えていただけますでしょうか。
八木良太 「Portamento」 2006

八木良太 「Portamento」 2006

八木良太(以下、Y) : 例えば多くの人が、“幅”や“奥行き”、“高さ”などの3次元的な概念においては、ものを縮めたり引き伸ばしたりすることを感覚的に理解しています。一方、“時間”については縮めたり伸ばしたりできない、絶対的な存在と認識している人が多いのでないでしょうか。しかし、音楽を専門としている人は、時間の特性や構造を掴むことが得意なので、時間を扱うことがうまい人が多いように思います。扱っている次元が違うせいか、ビジュアルアーティストの多くは時間を扱うことを苦手に考える人が多いですが、僕は大学の時に専門的な美術教育を受けなかったせいか、時間に触れることが得意です。「時間に触れる感覚」を持っているということが、僕が現在音や映像、時間を扱っていることの一番大きな理由であり、皆に作品を楽しんでもらえている要因ではないかと思います。
& : 仰る通り、八木さんが扱っている音や映像は、“時間”という概念と切り離せないものです。音楽家の菊地成孔さんの楽曲『DANS LE NOIR DU TEMPS ≪about time/時間について≫』の詞に「時間について我々は 長きに渡る探求の末 何の結論も得るには至っていない(※1)」という一節があります。この詞が示すように、システムとしても概念としても研究され尽くしていても、未だ時間について何も解っていない、といことが時間の魅力ではないでしょうか。
八木良太さん
Y : 以前アーティストの鴻池朋子(こうのいけともこ)さんに、時間に対する僕の姿勢について「虫取り網を持つ男の子が時間という虫を捕えようとしているけれど、網の目が大き過ぎてスルスル抜けていっているような感じがする」と言われたことがあります。その動作は時間の特徴を表わしていると思うのですが、実体が掴みきれないというのは確かに魅力だと感じます。僕はLisa Randallという人が書いた『ワープする宇宙―5次元時空の謎を解く』(Lisa Randall著 日本放送出版協会 2007年)という本が好きなのですが、その本は多次元的に時間を解釈していて興味深いです。こういった文章を読み、「次元がこういうふうに解説できるんだ」と思うとワクワクします。自分たちが3次元で生活しているから、4次元のことを話したり、表わそうとしても、言葉が足りないし、そもそも共通の経験もないので、うまく伝えきれないもどかしさがある。それをうまく説明しているのがこの本です。
& : 分かりやすい言葉で書かれているのでしょうか。
「Lento-Presto (Corridor)」 2008

「Lento-Presto (Corridor)」 2008

Y : 例えば「フライパンのコーティングなどに使われるテフロンの結晶構造は、普通に見るとどのように見ても揃っていないが、高次元から見るとぴしっと揃っている」といったような内容が記してあります。僕が2008年に制作した『Lento—Presto』という作品は、高速再生でスピーカーから曲を出力し、その様子を風景を含めて撮影/録音してから、撮影した映像と音をスローで再生すると、映像だけスローになり、音は元の速度で流れる、というものでした。この作品は「スピードを落としたら曲が再現されるであろう」という予測のもと組み立てていかないと実像(高次元からの射影)が現れない。つまり、目の前で起こっていることを、俯瞰して見て、次元を1つプラスして考えるような思考がないと制作できなかったと思うんです。

& : 続いて作品の在り方について伺っていきます。八木さんは本来の目的以外の使い方で既成品を使用することが多いですね。その行為はものに新しい価値を与えているというより、むしろ用途を剥ぎとることで、本質を明らかにしているかのように見えます。例えば日常の疑問を掘り下げて考えると、あるところで意味を失う。八木さんの「意味を失う地点まで、物事を掘り下げる姿勢」には共感を感じます。
Y : 日常品に関しては、使うことにこだわりがあるわけではなく、身近にあるから使っているといった感じです。日常品であるかどうかは、それほど重要ではないと思っています。例えば、ここに理科の実験に使うシャーレがありますが、僕は蓋つきのそれを灰皿として使っています。酸素さえなくなれば火は消えるから、蓋つきの灰皿があってもいいと思うのですが、あまり売ってないですよね。一歩引いて見れば、目的は色々増えるわけじゃないですか。「もの自体が持っている意味を剥ぎ取ると、別の使い方がある」ということが好きなのかもしれないです。あとはこの坩堝(るつぼ)。
& : それは何に使っているのでしょうか。
Y : SDカードを入れています(笑)。とにかく日常にものが溢れかえっているから、わざわざ新しいものを作らなくても、もとあるものを活用したらいいと思うことは多いです。
& : 例えばビデオアートや、メディアアートといわれる分野では、物質自体を中心に据えない作品も多いと思います。しかし八木さんの作品からは物質と作家、もしくは物質と鑑賞者の距離感を大事にしているような印象を受けます。違った角度から見れば、物質に執着しているように見えますね。
「Light of music」 2006

「Light of music」 2006

Y : 映像の中では、何が起こっても全然驚かないというか。例えばすごくショッキングなシーンだったとしても、画面の枠の中で起こっているので距離を感じますよね。制作過程でもPCで作るものはそこまで面白いと思えない。実物のほうが情報の濃度が高くて、ギュッと詰まっている感じがするから面白いです。あと、実物は嘘がつけないじゃないですか。ビデオや音はやろうと思えば嘘をつける。映像と音を分離して、もう一度合わせることだって可能だし、映像が誕生してからはむしろそういった方法が主流です。
& : 概念をある程度分解、解体すると無意味になるという思考の流れは哲学的だと思うんですよ。それに対して物質を分解、解体して用途を剥ぎ取っていくとアートになる、というのは一つの真理ではないでしょうか。
Y : 自分の中で真理や本質がはっきりしていればもっと楽に作れると思います。でも僕はあまり本質ということにこだわっているわけじゃなくて、現象の方に興味があります。本質の対義語は現象なんです。
& : そうなんですね、なぜそれが対義語なのか不思議です。
Y : すごく不思議ですよね。現象は感覚でとらえる外面的な姿で、本質は理性がとらえる現象が起こった根底に存在するものらしいです。だから現象に近づこうとするほど、本質からは遠ざかって行く。僕はそこが面白いと思っています。
& : 前回の個展のタイトルは『事象そのものへ』でしたよね。
Y : 『事象そのものへ』という展覧名は池田晶子さんの本のタイトル(※2)にもなっている、フッサールの有名な言葉をそのまま引用しています。一切の先入観を排除して、事象に向き合う態度を示したこの言葉を展覧会名にしたのは、あの展示に“観察”というテーマがあったからなんです。実際にものに寄って近くで見て、何が見えてくるかを自分で確認したいという思いがあって、タイトルを先につけました。でも僕はあまり哲学的なことをシリアスに表現するのは得意ではないので、まずは楽しく、それから深く考えてもらうことが重要だと思っています。「美術は評価軸が曖昧で分かりにくいし、理解するのが難しい」と言われるけど、もっとシンプルに感覚的にも楽しめるものであっていいと思います。

作家について - 作品が作家の理解を超えたところまで理解されることもしばしばある

& :個展『事象そのものへ』で展示していた作品『Remote con-troll』は、パッケージングの仕方によっては、八木さん自身がでんじろう先生のように位置づけられる恐れがあります。ご自身のそのあたりの立ち居地は意識しながら活動しているのでしょうか。
八木良太 「Remote Con-Troll」 2010 Photo: Kei Miyajima

八木良太 「Remote
Con-Troll」 2010
Photo: Kei Miyajima

Y : 他人からどう見られるかということですよね。美術作家にとってそれは、とても重要だと思います。無自覚なことは良くないですね。僕は自分の立場を自覚しているつもりです。他のフィールドでもおもしろがってもらえるかもしれませんが、僕が満足できないことが多いと思います。
& : 部屋の本棚に美術の本がたくさん並んでいますが、八木さんがおもしろいと思うアーティストを教えてください。
Y : Nam June Paik(以下、パイク)関係の本は集めています。例えばこの『遊学の話―すでに書きこみがある』(松岡正剛著 工作舎 1981年)とうい著書には、松岡正剛さんとの対談が掲載されているのですが、パイクの言っていることがめちゃくちゃですごくおもしろい。必ずしも合理的でないことや、今になって読むと「おかしいな」ということを言っていたり、いきなりビデオの本質的なことを語り始めるなど、かなり話しが飛んでいたりします。
& : 矛盾しているところが好きなのでしょうか。
Y : パイクの場合は人柄でしょうか(笑)。僕は作家と作品は切り離すべきではないと考えています。「あの人が作っているから面白い」という見方は十分にありだと思います。何年か前まで、僕は「作品は作家から自立してほしい」と考えていました。でも、これまでに自分の好きな作家の作品を見ていて、「その人が好きで、その次に作品が好き」というように順番が入れ替わることがよくありました。それで「これは認めざるを得ない」と思い、あまり得意ではないですが、今では求められれば自分でもパフォーマンスをするようにもなりました。3、4年前だったら、インタビューも断っていたかもしれません。僕が喋ることによって作品に悪い影響を与えてしまうこともあると思うので。
& : 作家が喋らないほうがいい作品もありますよね。
Y : 作家は勉強が必要だし、他者に対しておもしろい視点を与えられるような発言ができないと魅力的でない気がします。作家を見てがっかりすることもあります。
& : 作品を鑑賞したとき、もちろん純粋に「作品がいい」と思うパターンもありますが、「この作家の頭の中に何が入っているんだろう」と、作品を介して作家を想像して感動するときがありますよね。その作家の持つスケール感が異様に大きかったり、アイデアが次々湧いて出ていることが垣間見えた時に、「次も見たい」と思うことは多いです。
Y : どちらが奥深さがあるかというと、僕は後者だと思いますね。

& : 僕もそう思います。
Y : 岡本太郎さんの作品がいいのも、人としての魅力が影響する部分が大きいと思います。それを不当な見方として排除しようとしてきたのが、純粋な美術の見方だったのかもしれません。しかし、そういった考え方を改めてみたら、美術というフィールドはもっと居心地が良くなるのではないでしょうか。それを利用して、逆にIdeal Copyのように匿名で作品を作るというのも興味はありますが。
& : 作家が作品を作る目的は人それぞれですが、活動のモチベーションに「自分を認めてほしい」という願望は少なからずあると思うんですね。そう考えると、作品がおもしろくないのに、評価されている状態は作家にとって、それほど悪い状態ではないと思うんです。
Y : 不当な印象を受けなかったら、別にいいのではないでしょうか。「なんでこんな作品を作ってるのにあの人は評価されているんだろう、でもこの人の言っていることや考え方は面白いからまあいいや」ということもありますよね。そういうアンビバレントな感情はみんな持ってると思うんですよ。
& : 仮にパイクのおもしろくない作品があったら、必死に読み解こうとすると思うんです。様々な本を読んで作家性をある程度知っているうえでそういった作品を見た時、秀作と呼ばれる作品よりも愛してしまうというのは往々にしてあるのではないでしょうか。
Y : そういう読み解き方をされると、作家はすごく幸せなのではないでしょうか。自分が考えている以上に作品がうまく喋ってくれるというのはよくあることだと思います。理解されないことも多いけれど、作品が作家の理解を超えたところまで理解されることもしばしばある。それは作家活動をしていることの楽しみの一つです。他人が自分の展覧会について書いた文章に、「この作品がおもしろかった」ということが書いていて、なおかつそれが意外な作品だった時は「この作品を楽しんでもらえたんだ」と思って嬉しくなります。今の時代、作家の価値観を押しつけるような姿勢は必ずしも有効じゃないですよね。発言がカリスマ性を持っている人ならいいけれど、それもやっぱりすべては人の魅力によるところかなと思います。
八木良太さん

京都について - 常にある程度の美術との距離を保ちつつ、制作できるようにしています

& : 現在京都市立芸術大学大学院博士後期課程在籍中ですが、大学院ではどのようなことを研究しているのでしょうか。
「Vinyl」 2005

「Vinyl」 2005

Y : 今は「時間とその形態 ー記録への創造的アクセスとしての芸術ー」という題目で研究を進めています。僕は今までレコードやテープなどのアナログメディアを使って作品を制作してきましたが、それらはすべて記録媒体と呼ばれるものです。記録と美術は一見関係なさそうですが、起源は同じところにあると考えています。忘れがちになってしまう美術と記録の関係を、冷静な目で見つめ直すことができれば、美術の別の方向性も見えてくるのではないでしょうか。また、記録は遡(さかのぼ)れば保存に置き換わります。僕は始めそういったことを意識せずに氷でレコードを作りましたが、冷凍するということは保存することや記録することと密接に関わっているんです。素材の選択としては間違っていなかったということに最近になって気づきました。こういったことから展開して、今は紐状のテープと、レコードのような面的なものとの違いについて考えています。また、そこからさらに展開し、今はテープが球に展開するとどういう音がするのか、そこに何が付加されるのかということを実験しています。歴史を辿れば、レコードやCDなどの登場によって時間に対するアクセスの方法が線から面になったことで、リニアからランダムアクセスになり、順を追ってアクセスしなくてもよくなった。それが面から球になったとき、もっとパフォーマティブな記録メディアになるなど、ランダムアクセスに不確定な要素が入る気がしています。今はそういったことを考えています。
& : 大学で京都に来られて、今もまだ京都に住んでいるのはなぜでしょうか。
Y : 一番大きな理由は仕事があるからです。それと周囲の人や環境でしょうか。制作ができる環境と仕事さえあれば、大阪でも広島でもいいかなと思います。
& : 発表ということについて言えば、京都ではなかなか展示の機会はないですよね。
Y : そうですね。このマンションの3階の方と、この間落ち葉掃きを一緒にしている時にも、「展覧会を京都でやらないんですか」と聞かれました。

& : 地域の落ち葉掃きに参加しているんですね(笑)。
Y : 落ち葉掃きや、地域の運動会にも参加しています。地域の行事に参加したりすることを、嫌がる人もいると思いますが、僕は人嫌いではないので。用もないのにピンポンと鳴らして、その辺で立ち話するようなことはしないですが(笑)。
& : でも運動会に行くというのは、積極的な地域の人との関わり方ですよね(笑)。
Y : 人に言うと驚かれることが多いのですが、誘っていただけるので。落ち葉掃きの時に、町内会の役員をお願いされたのですが、さすがに「ちょっとそれは」と(笑)。
& : 同年代の人と比べると、かなりしっかりした付き合いをしていると思いますよ。
「Common difference」 2009

「Common difference」 2009

Y : しっかりしているというか、興味があるというか。日常から制作に浸りすぎて話題が偏ってしまうのは怖いですね。美術の話をするのも楽しいですが、常にある程度の美術との距離を保ちつつ、制作できるようにしています。年に2回、盆と正月には必ず実家に帰るのですが、地元の友達に「今こういう作品を作っている」と話して、おもしろがってもらえたら「これはいける」と思います。美術を専門にしている作家の友達に話す内容と、地元の友達に話す内容は全く同じなのですが、話した時のリアクションが重なった時はそこで一つ「美術が繋がった」という感じがして嬉しいですね。また専門的に美術をやっている人たちと話すと、専門的な言葉で話すようになるじゃないですか。例えばインスタレーションという言葉一つとっても美術関係者以外には伝わらない。僕みたいに割と解りやすい作品も作っていると、一般の方たちがどういった部分に興味を持ってくれているかを考え、わかりやすい言葉に置き換えて喋る必要性が出てくる。専門的な言葉だけで伝えきれない部分もあるだろうし、こういったことを考えれば、美術以外のことに興味を持つというのも悪いことではないかなと思います。

社会について - 生活に直結する美術の使い方があれば、社会が少しずつ良くなっていく

& : 八木さんはどのような人に自分の作品をみてもらいたいですか。
Y : 誰か特定の人に見てもらいたいというのはないです。例えば、展覧会をしなくても、友達が家に遊びに来た時に「今こういうものを作っている」と、作品を見せるのも一つの見せ方だと思います。形式にこだわるつもりはないし、自分が興味のあることを、誰かがおもしろいと思ってくれたら一石二鳥といった感じです。
& : では「どれだけ多くの人に作品を見てもらったか」ということより、その場でリアクションをもらうことの方が充実感がありますか。
Y : そうですね。でも文章に残してもらったり、カタログを制作していただけたりしますし、そういう部分には大きな展覧会に出品することのメリットも感じています。展覧会は会期が終わると何もなくなる。それはあまりにも悲しいので、本などで残すことができることはとてもうれしいですよね。

& : 八木さんは社会とアートの関係をどのように捉えていますか。
Y : 世の中の人の9割以上は美術やデザインとほとんど関わりがないと思います。でもそういう人たちが中心となって社会を作り日本ができている。だからむちゃくちゃな書体を看板に用いたり、ヘンテコな橋を作ったりするわけじゃないですか。それを否定的に見るのか、肯定的に見るのかによってこれからやらなくてはならないことが分かれると思います。現状を否定的に見て、それを改善するために全体的なセンスの底上げを狙うならば、今やることはスターになることではなく、芸術やデザインに触れる楽しさを普及させるための活動をすることですよね。肯定的に見るなら、いまあるどうしようもないものに対して新たな視点を与えること。現在の美術は多くの場合実用的じゃないと思われています。でも美術の考え方自体は、生活するうえで役に立つことがたくさんあるのではないでしょうか。作り手目線の意見かもしれませんが、僕は今楽しく生きることができているけれど、美術がなくなったら毎日の生活がもっとおもしろくないと思う。生活に直結する美術の使い方があれば、社会が少しずつ良くなっていく気がします。

(※1)引用元:菊地成孔、COMBO PIANO『SONIC abstractures, based on the motion picture ’10 minutes older’』収録楽曲
『DANS LE NOIR DU TEMPS ≪about time/時間について≫』
(※2) 『事象そのものへ』池田晶子著 法蔵館 1991


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